NieR:Automata(ニーア オートマタ)をEエンドまで攻略したのでテーマとか考察する ※ネタバレあり

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タイトルに「テーマ考察」とか書きましたが、そういうことを書くと人が読みそうだから入れただけです。ごめん、ただの感想だから。

当たり前ですけれどもネタバレ全開です。そして僕は過去作を一切プレイしてないどころか、エンディングすら全て集めていません。自信満々に断定口調で書いていますが、ちゃんとゲーム遊びきってないし設定もちゃんとわかってません。

ニーア オートマタ - PS4

ニーア オートマタ – PS4

 

 

 

ニーアオートマタは「お前ちゃんと生きているか?」とプレイヤーに問いかける話だった

Eエンドの最後でポッドに自律思考が芽生え始めて「生きることは恥を重ねるということだ」とか言い出すじゃないですか。

これは言い換えると「人生で大事なことはゴールではなくて、その道中で何をするかが大事だ」ということです。生きること・死ぬことが人生の目的じゃないわけ。「胸を張って死ねるか?」の方がニュアンスとして近いかもしれません。

ゲームも同じです。「道中で何を思い、何を感じたか」が重要であって、クリアすることが大きな目的ではないわけです。

ということがテーマだと思ってしまったら、最後にデータを消さざるを得なくないです?

ニーアオートマタは最後にセーブデータを消して初めて、物語が完成するんです。逆に消さなきゃ、作中のテーマを「受け取った」と言えな い。

 ポッドがデータを消すときに

「もしかしたら嫌いなやつを助けるかもしれないし、役に立ったことを誰にも知られずに終わるかもしれない。それでもいいか?」

と聞いてくるのは、「お前は恥をかくことを恐れないか?(=ちゃんと生きることが出来るか?)」という意味だと思うのですがどうでしょうか。

 

2Bの名前について

多分、2Bという名前はハムレットの「To be, or not to be(生きるべきか死ぬべきか)」のTo beから来てそうでしたね。

そう考えると9Sの生きる目的が2Bが死んだ瞬間から薄れていくこととか、戦うために2Bの腕を移植するシーンとか暗喩的で良くないです?

でも9SとA2の名前の意味はわからなかったので、いいこじつけが見つかったら誰か教えてください。

 

アンドロイドと感情

2B達がゴーグルを外すときは、感情や意志が描写されてるんですよ。A2が最初からゴーグルを装着してないのは、既に自分の意志で生きているからでしょうね。目は感情を伝えるのに重要なパーツだし、だから隠す必要があったのかなと。

しかし、感情を持つことは必ずしも良いこととは限らない。パスカル村の子供ロボットが「恐怖」を学習してしまったことで、集団自殺してしまうシーンはそういう意図でしょうね。

 

アンドロイドと機械生命体の違いを描くことは「人」を描くことに繋がる

9Sってやたらと機械生命体を見下してたじゃないですか。

彼にとってアンドロイドと機械の違いは「機械生命体でない」ということであり、それこそが絶対の価値、アイデンティティだったからだと思います。まあ、途中でそれが崩れ去って「立場の違い」以外の差を見つけられなくて発狂寸前になりましたが。

じゃあ、9Sの価値ってどこにもないの?と言ったら、それは間違いなわけです。

仮に同じ両親から生まれた子供が、同じ名前をつけられて、同じ学校に通っていたらそれは同じなの?という話でですね。9Sはそこまで考える前に脳死で機械生命体を壊してましたけれども。

 

話は少し変わりますがロボット工学とか芸術の世界には「不気味の谷」という単語があるそうです。

それは、人に似たものを作っているとどっかで「こいつ気持ち悪い」って思う瞬間が来るという意味らしくて、それがこのゲームで最初に訪れたのが機械生命体が「コノママジャダメ」と言いながらアダムを生むシーンじゃないでしょうか。

でも徐々にパスカルとか森の連中とか見てたら愛着湧いてきませんでした?

それって機械生命体が「不気味の谷」を乗り越えてきたってことだと思うんですよね。となると実はそれって機械生命体とアンドロイドの境界線じゃなくて、人間との境界線が曖昧になってきてるってことじゃないですか。

今、人と芸術とアンドロイド — 私はなぜロボットを作るのかという本を読んでるんですけれども、その中で人間そっくりのロボット作ってる筆者が「ロボットが置き換えられない部分を見つけたとき、初めてそれが”人らしさ”だとわかる」というようなことを言ってるので、似たような意図で今回の設定にしたんじゃないかと思いました。

 

機械生命体とアンドロイドのネットワークについて考える

アンドロイドと機械生命体の違いのひとつとして、ネットワークへの依存度というものがあったと思います。機械生命体はネットワークからの指示を忠実に守っているのに対して、アンドロイド側はある程度は自由に動くことが出来ました。

今はSNSで簡単に繋がりを作ることは出来るし、おかげでめちゃくちゃ便利になったんですけれども、それは「個人」という感覚を希薄にするものだと思います。たとえばヤフー知恵袋にアクセスすれば誰もが正解を得られるけれども、その分だけ「個人の面白さ」みたいなのは減るじゃないですか。

アダムは最後にネットワークから切断して戦いましたけれども、それは「個人」として生きる、ということなのかもしれません。だから、イブが最後に機械生命体を暴走させたのはSNSの炎上みたいなもんだと思います。

とはいえ、ラストのシューティングは繋がりで助かったので 、作者はSNSや繋がりを100%否定するわけじゃないでしょうが。

 

ニーアとニーチェ

このゲーム、いろんな哲学者の名前が出るじゃないですか。サルトルとかパスカルとか。だから、哲学がストーリーのモチーフになってると思ってたんですが、エンディングを見て気付きました。永劫回帰ですね。

永劫回帰というのは「ループでもええやん」思想です。ニーチェは読んだことないですけれどもニコニコ大百科に書いてあったので間違いないです。

dic.nicovideo.jp

 

 で、ここから色々書いてみようと思ったのですが、ニーアとニーチェの関係はここに書いてあったので、みんなここ読んでください。

hjk1.blog89.fc2.com

 

パスカルの最後って微妙すぎない?

パスカルさんって、最後は色々あって「記憶消してくれ」とか言い出すじゃないですか。辛いから記憶消して生きたいって機械的な発想ですよね。

「人は悩んだ分だけ誰かに優しく出来る」というのが持論なんですけれども、パスカルさん、抜け殻。子供無駄死にやんって思いました。まあ、次に活かすとか無理だから仕方ないのかもしれませんが。

 

ABエンドを考える

認知心理学か何かの考え方で「人間に本質なんか存在しない」というものがあるんですよ。個人を定義するのは自分ではなくて周囲という考え方です。

それは「名前」もそうだし、「所属」もそうだし、「私は人に優しい性格です!」というのも周囲に人間がいるからそう言えるだけであって、人類最後の生き残りになったら優しいもクソもないじゃないですか。

ABエンドで9Sが復活したのは機械生命体のデータの中に残っていた「9S」という人格をかき集めたからですが、それがこの考え方に似ているなと思いました。

あと、この考え方って「関わる人が多ければ多いほど自分を正しく形成してくれるかもしれない」って考えることも出来るわけです。Eエンドでセーブデータを放流して知らない人を助けにいきますが、それって「自分が無くなっても誰かが助けてくれる可能性を増やすこと」に繋がりますよね。

2Bは死んだけれども、9SとA2の心のなかでギリ生きてたというのも、この考え方なのかもしれません。A2に2Bの記憶が混ざっていたというのはアンドロイド的な機能かもしれないですが、誰かの意志を引き継ぐってのは、誰かを生かすことなのかもしれないですね。

もしかしたらそうじゃなくて「誰かの記憶に残りまくったら物質的には死んでも精神的には生きてるやん」思想なのかもしれませんが。

プロフィール

読書好きのゲーマー。
ゲームは無双みたいなライトな物が好き。
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